健康のために、”適切な”運動をしよう。
健康になる”良い”食事を。
健康を”促進”する多くの標語がある。トレーニング愛好者にとって健康って何だろう。
健康の定義
自然な目覚め。爽やかな朝の空気を感じ、これから始まる1日が活力に満ちたものに思え、帰宅後、ゆっくりと暖かいお風呂に浸かり、美味しい食事を味わって安らかに床に付ける。そんな日が続け”られる”のが健康的な日々を過ごすと思われている。
現実はどうだろうか?目覚ましに叩き起こされ、身繕いも適当に、時計を気にしながら玄関から駆け出す。
職場での仕事も”捌く”ことで精一杯。疲れ果てて、適当に身体を洗い流し、”その辺”にあるものか、目にしたものを買い込み、お腹に流し込みベッドに飛び込む。休日も、ひたすら寝溜め。風呂上がり鏡に映る身体に驚くか、健康診断の評価表に一喜一憂する。
そう、自然にあるいはリズミカルに1日が”流れていく”のではなく、つまらない、ありふれた事象との出会いは身体も適当な形になっていくし、予期しない、想定外の、ストレスいっぱいの”受け身”生活は、身体もガサガサした歪みに変わっていく。
してもらうのが楽
紀元前から紀元後、混沌としていたローマをまとめ上げたシーザーは言う。
”人は見ようと思わなければ何も見えてこない”
身体のたるみ、だるさ、不調、不愉快感、いずれも日常生活の”何か”が変調してきた”積み重ね”で起きる。
その何か、を見ようとしないと、病に繋がる。
わからない、見たくない、面倒だから、”とりあえず”、誰かに”モミモミ”してもらう。なんとか矯正、なんとかリリース、老廃物除去マッサージ、巷には、そそられる文句が並び、”楽になりそう”と頼る。
それでもパッとしない、明らかに不愉快さが増す時、面倒でも医療機関に向かう。
初対面で、数分しか症状を見ない(見ようとしない)し、安易に薬を出す(欲しがるので)医者に頼る。
病名を告げられてもよくわからない(わかろうとしない)ので、適当に調べてサプリに頼り大量に買い込む。主作用と副作用が上重ねされていることなど気が付かない。
血圧が高ければ下げる薬を飲む。血液検査で、脂肪、コレステロール、糖が高ければそれを下げる薬を飲む(欲しがる)。
全て、他人任せ。自らの日常生活を送っていく中でどうしてこうなったのか、振り返りながら、見つめ直すことさえすれば、原因と解決方法が、薬やサプリなど無くても見えてくるし、改善するのにそれをしない。
自ら動くべし
肉体労働従事者は寿命が短いと言われ、長時間炎天下で重量物を扱う奴隷は”使い捨て”だった。
汗水垂らす仕事は他人にやらせて”楽して長生きしたい”高貴な人の生活となった。
本来、動物は餌を求めて移動し、時に戦う。人も動物、動くことが初期設定。筋肉も動くためにたくさん配置されている。
それが楽に、適当にしか、動かなくてもいいとなると、身体も”手抜き”になる。
きちんと座れない、立てない、歩けないことは動物として危機的状況である。
餌を得るために、生き物と戦う必要はなくなったが、食事を得るためにはならない、そのストレスの違いの変化に心も身体も追いついていない。
ただ動かすだけでなく、しっかりと筋肉を鍛える時間を自ら作るべきなのである。
自分で工夫して時間を作って内容を吟味する。多くの動物がそうしているように、形ある食べ物を自ら選んで口にすべきである。
大きな組織に恵んでもらうのでもなく、考えて調理する、それこそが健康な身体を維持する真っ当な道である。
次回からは、健康な身体にリフォームするための運動生理学、病を起こし治す 、進化から見た栄養学など、順次各論として述べていきたい。